仁 王(におう)


これは、本物。

 

分  類:集狂言 すっぱ物

登場人物:博奕打甲(シテ)、博奕打乙、立衆、足の不自由な男


 あらすじ

 博奕に負けて出奔しようとする博奕打に、仲間は、仁王になって一稼ぎするようにと勧める。博奕打が仁王の姿になって立っていると、参詣人たちが来て、供物をしては願い事をするので、いろいろな物が集まる。
 博奕打は、仲間の忠告も聞かずにまた仁王立ちをするが、足の不自由な男が足を治してもらおうと大草鞋を首にかけ足をなで回すので、結局にせ仁王と気づかれ参詣人たちから逃げ出す。


これは、“臭う”。

 みどころ

 仁王に化けてみたら、たんまりと供物をせしめることが出来、「もうやめておけ」という博奕仲間の言葉を聞かずに、味をしめてもう1回、結局馬脚をあらわすというストーリー展開・・・正しく、「ドラえもん」ののび太君の結局失敗パターンと同一です。
 興味を引くところは、やはり仁王への変身でしょう。肩衣を取り、着付けの縞熨斗目(しまのしめ)の両肩を脱いで下げ、上半身は着込みのカルサン姿(狂言『唐(人)相撲』における中国人風の衣裳。既に下に着込んでいるのは、ご愛敬、ご愛敬(笑))になり、仁王頭巾をかぶり、体に大きな弓なりの“後光”を背負って、手には独鈷(とっこ)を有し、仁王の力強い図像を気取ってハィポーズ、後は眉間に立てじわを寄せれば(この仕上げが大事!立てじわが寄らない人もいるので)、ハィ、簡易仁王様の出来上がり!という安易さがおかしみを誘います。お話とはいえ、こんな仁王に皆ダマされるとは・・・。
 結局、偽仁王と気づかせるのは、“跛(ちんば)”役なのですが、昨今の差別用語の一辺倒の規制により、演者も“跛”と言わず”足の不自由な男”という言い回しを用いたりしています。演じている側としては、例えば“すっぱ”を“うそつき坊主”と言い換える様なもどかしさ、無力感、骨抜き感があるのですが、観ている側の人達はどう感じていられるのでしょうか。不愉快な人が1パーセントでもいたら、やはり言葉を改善(?)すべきなのでしょうか。また、実際に体の不自由な人がこういった狂言を観られて、実際不愉快に思われるのでしょうか。また、不愉快に思われた場合、それは言葉を骨抜きにすることで、その不愉快の度合いを低くしたり無くしたり出来るものなのでしょうか・・・。
 疑問はつきませんが、狂言にはずばり「出家座頭狂言」というジャンルがあります。その中には、身障者をなぶる狂言もありますし、又、狂言『月見座頭』のように、むしろ健常者の心に強く訴えかける狂言もあります。是非とも、皆さんの狂言における身障者の扱い、それを扱う狂言の是非等の意見を頂けたらと思っております。

文:湯田拓也

 公演情報

      


「狂言演目紹介」冒頭ページに戻る

トップページに戻る